幻視・視覚化について想ったこと

幻視・視覚化を行う際には様々な要求があります。
そのうちで最も重要なのは解像度ではないでしょうか。

視覚化になれてない、資料の読み込みが足りてない場合には、対象はぼんやりした像を結びます。解像度が低いのです。
“目”に映そうにも、その映すべき映像の詳細を持たないからです。

逆に、視覚化にも慣れ、資料の読み込みが十分になり、対象の詳細を隅から隅まで押さえたならば、その像は綺麗に結ばれることになるでしょう。
そうなれば次は五感です。目に見えるだけでなく、手で触れ、熱を感じ、匂いを嗅ぎ、場合によっては味覚も捉えることでしょう。ここまで出来ればその存在はもうあなたの中に存在していると言っても良いかも知れません。

ここまで読んで、非常に難しいと思われたかも知れません。

しかし、慣れた者であっても、毎日毎回全ての要件を満たすことは難しいものです。その日その日によって体調や気分の好不調がありますので万全のものを見いだせないことの方が多いです。
上手く行ったときの魔術日記には非常に興奮した解説文が着くはずです。

夕方の日拝

夕方の日拝をしてきました。

昼の日拝を終えた後から凄い勢いの通り雨が降り、空はすっかり雲が晴れていました。

夕日の残照を眺めながらの日拝。

神々の船は雨の影響もなく通常運転でした。
昼から夜へと移り変わろうとする時間、船は勢いを付けて地平線の下に飛び込もうとしていました。

神々と簡単な挨拶を終え、これから訪れる闇の時間が安らかで有ることを祈りました。

久々の昼日拝

先ほど、もう夕方に近い時間ですが、日拝を行ってきました。

日拝は、エジプトの神々が太陽となり、一日を巡る様子を拝む形のモノ。
本来は朝・昼・夕方・夜中の4回なのですが、私は普段朝と夕方の二回しています。

今日はちょっと気が向きまして、庭の草取りのついでに日拝をしてみました。
南の空に向かって火のサインを掲げながら祭文を唱え、視覚化を行いました。
南の空といいつつ、既にもうかなり西に向かって飛んでいる船は、かなり賑わっていました。

西の空には秋と水、南の空には夏と火。季節の合わせ目を渡りながら、一日の切れ目も渡ろうとしている船。
属性の変更やらなにやらでわいわいとしてました。

私はそれを船の外側から見ていました。今の神々には私に構う暇は無さそうだったからです。

まぁまた夕方の日拝をするときには夜に向かう船の様子を見て見たいと思っています。

「巡る旅路」

星の海ゆかば
私も星のようになる
近くを飛ぶのはなんだろう
人だろうと妖精だろうと

精霊の海ゆかば
私は水のようになる
流れる潮に乗れば
どこまでも征ける

私はあなたを探す旅
新しい界を巡る旅
どこもどこでも
私は訪問者

そしてあなたは思わせぶりで
決して私に姿を見せない
私があなたを最後に視たのは
いつだろうか
本当にあなたを見たのだろうか

私は風の宙に舞う
古今のモノとともに飛ぶ
あなたの徴はここにも有って
あなたの姿はどこにもない

オリジナルタロットを描くことに決めた

昨日、タロットカードを描くことに決めた。

自分の中にあるイメージや「タロット象徴事典」やらウェイト版、その他のカードを見て、自分の中にある物を描いて見ようと。

画力が足りない気がするが、まぁ何とか頑張ってみようと思う。

一応、昨日愚者をについては描いてみたが……。完成は何時になるのか……。

魂の遊戯

私は潜る
私の中へ

私は往く
天の高みへ

深みと高みは等しくて
際は繋がる

海の高さよ

私は拡げる
私の世界を

私は翔ぶ
知らぬ私を識るために

スフィアはいつも澄んでいて
パスはいつでも私を迎える

星幽界をただ往けば
四大のプレーンでただ遊ぶ

パスを往こう
試練を受けに
スフィアに往こう
知霊と語るために

生と死を超え
野蛮と高潔を呑み込み
風となり飛び
火となりて命燃やし
水となって流れ
地になれば全てを呑み込もう

そしていつか
私は見つけるだろう
遥か彼方の
神の座を

私は識ろう
遥かな底に
拡がる私を

日拝の太陽の船

下の下手くそな絵は、今日の夕方(18時頃?)見た太陽の船の図である。液タブ使ってもこれくらいの絵しか描けない自分が情けないような気がする。

下を向いてないのは何でだろうな。この時間なら夕方だし夜に向かって進むはずだけど。あれか、飛行機が着陸態勢に入るような感じなのか?揚力がこー、どーこーみたいな?

単純に見間違えたのかも知れねぇな。何とも締まらない。

何故魔術をやるのか(2014/8/8の魔術日記より)

私が魔術をやるスタンスについて質問を受けたので、この文章を掲載して回答とする。2014年8月8日の魔術日記からの抜粋である。

昨夜から「何故魔術をやるのか」について考えてる。
一番の欲求は「知りたい」事だった。

何を知りたいかと言えば、霊的な存在、創造主、天上におわす何者かについて知りたいのだろうと思う。
日常の儀式もタロット占いも占星術もタットワ瞑想も、極端な話「知る事」さえできれば不要なのだ。
知った後どうするかと言う事については考えてない。
私はただ知りたいのだ。会って話したいのだ。
何故この世を作ったのか、この世は何故あるのか、人は何故存在するのか。
人はどこへ向かうのか。
貴方は何を目指しているのか、貴方はどこから来てどこに向かうのか。

ひょっとしたらソロでやってる限り、知ることは出来ないのかも知れない。
どこかに所属できたとしても、私の能力では知ることは出来ないかも知れない。
だが、ひたすらに知りたいのである。この衝動を止めることは出来ない。